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猫に小判、抹茶に羊羹

役に立つことは多分ない。美味なるものには毒がある

男脳と女脳とコミュ力と

 「話を聞かない男」とか「地図が読めない女」とかいう区分をはじめ、世に男脳・女脳の話題はずいぶんとある。

 が、別に性別=脳構造というわけでもないことは良く知られているとおり。これは単なる個人的な感じではあるけれど、だけど、一般的に言って男性の方が色々な意味でのばらつきが大きい(ずば抜けてすごいのがいれば、とんでもなく駄目なのもいる)気がする。

 もし、この前提が正しく、またこれが脳についても言えるということだと、男性には「ガチガチの男性脳」から「並みの女性以上の女性脳」まで、バリエーションに飛んでいるということになる。

 

 近頃、男性のコミュニケーション能力を問う記事も良く目にするが、これらを見るたびに首が傾くどころか折れてしまいそうになる。(コミュ力、コミュ力と書かれると、なんだか全部カタカナ読みしそうになってしまうな)

  コミュニケーションといえば、双方向の情報伝達を図るということで、特に一方からのアクションに対してもう一方がそれに反応してアクションを返すということになるだろうか。

  こうしたやりとりは言語によるものとは限らないので、おおよそ動物という動物はみな(最近の研究だと植物もそうらしいけども)互いに何らかのコミュニケーションをとっていると思って良い。

  ただ、言語というものによって人はかなり複雑なことまで伝え合うことができるようになったので、こうした場で「コミュニケーション」というと、言語による相互のやりとりが主だったものになる。

 

 さて、ここまではいいのだけど、問題はその先だ。いったい何を伝えあうことを”コミュニケーション”と称しているのだろうということだ。なんでもかんでもコミュニケーションと呼んで「コミュ力」なんて略しているけど、本当に全部まとめてしまって良いのだろうか。

 

 ビジネスの場でのコミュニケーションといえば、とにかく情報を正確にきちんと伝えることであったり、駆け引きであり、互いに納得できるところを探す作業であり・・ということだろうか。好きだの嫌いだの、悲しいだの楽しいだのなんていう感情は基本的には関係ない。特に今は第三者の目も厳しい。後日その場にいなかった人が見てもきちんと納得できるような文書化されたデータに裏打ちされていなければそれこそ首が飛ぶ。ただ、そうはいっても、そこはそれ人間同士という面もあるわけで、完全に割り切っていけないこともある。これを仮に「ドライ&ウェットなコミュニケーション」と呼んでおこう。

 

 さて、もうひとつ別のタイプのコミュニケーションとして挙げられるのが専門家間のコミュニケーションである。こちらはまさに技術や専門分野でのやりとりなわけで、そこには「人間性」なんていうものはほとんど入り込む余地は無い。こちらを「ドライなコミュニケーション」と呼んでおこう。

 

 さて、こららと決定的に違うのが恋愛関係での「コミュ力」記事を書いている人たちの頭にあるものだ。読んでいると、重視しているのは感情表現であり、共感であり、他愛のないことで盛り上がったりということであったりといったところであって、場合によってはそれこそが至高のものだといわんばかりの書きっぷりだったりする。

 こうしたものから想像すると、彼らのいう「コミュニケーション」とは、女子会のノリであり、近頃テレビのバラエティ番組を石鹸している、タレントを階段状に並べてわいわいとやる、俗に「ひな壇番組」と呼ばれるものの盛り上がりや話の流れのようなものをイメージしているのではないのだろう。

 こうした感情面の共有などに重点を置いたものを「ウェットなコミュニケーション」と呼ぼう。

 

 もう気付かれたとおり、ウェットなコミュニケーションでは女性脳が圧倒的に優位である。そして、いわゆるお笑い芸人さんなどを含め「言葉で商売」している方々には女性脳な方が多い。実際にテレビ番組の「男脳・女脳」テストをしてみた場面も何度か目にしたけれども、色の識別が得意な一方で、立体空間の把握(同じ形の立体を選ぶとか、立体図と合致する展開図を選ぶなど)が苦手であるなど、女性的な傾向が見られた。「スタッフで事前に実験したときは男性はこっちが多かったのですが」とこぼしていたので、やはり喋りを得意とする男性は女性脳の持ち主が多いのだろう。今の時代のように恋愛でコミュニケーションが重視されると、こうした女性脳の持ち主が「恋愛強者」となることだろう。

 

 一方、ドライなコミュニケーションをとる場面というのは、人間対人間というより、”物”を介在させて人が集っているような状態だと言えるだろう。昔ながらの用語を使うならスペシャリスト的となるだろうか。

 必要な情報がきちんと伝わっていることが大事であって、相手との感情の共有なんていうものはほとんど重視されないのだ。これまた想像のつくとおり、こうしたコミュニケーションのとり方は「男性脳」の持ち主の方が得意だろう。

 そして、こうした方々にとっては目の前にある「物」こそが興味の対象であって、人間そのものにはそれほど深い興味は無い。たとえばある人を尊敬するといっても、それは相手の知識や技量などを尊敬しているのであって、別にその人自身を尊敬するということではない。

 

 さて、ドライとウェットの中間的な、ドライ&ウェットな部分だけど、完全に中間というよりドライ寄りのウェットと見た方が良いだろう。女性脳的な特質を持った男性が有利と見るといい。これまた昔ながらの言い方をすればゼネラリスト的・・・営業マン向きと見ても良いかもしれない。

 

 もちろん、こんな風にきれいに三分割されるものではないけれども、こんな具合に分けてみると色々なことが見えてくる。

 「職人気質」といえば、寡黙であるというイメージがあるのも、「男は黙って○○ビール」なんてCMがあったのも、サラリーマン同士での会話が仕事の話ばかりだいうのも当たり前。「夫婦の間で会話が無い」というのも、それはそうでしょうとなる。

 また、「男社会で働く女性にはストレスが・・」というけれど、それはコミュニケーションの質がまったく違うからだと見れば納得がいく。

 

 そう、「コミュニケーションの質」が違うのだ。昔からウェットなコミュニケーションが得意な男性はいて、俗に「色男」と呼ばれていたのだろう。

 一方、ウェットなコミュニケーションが苦手な男性の中でも必死に女性の尻を追ったりしていたものがいたけれど、これはほとんどが性欲からきたもので、異性にに対して幻想を抱き、欲情し、それらに突き動かされたいたのだろう。そもそも、こうした男性の場合「恋愛」そのものにはほとんど興味が無かったのだ。

 ところが、こうした幻想が幻想に過ぎないことがわかり、欲情は代替手段に取って代わられた。つまり、それぞれが無理をすることなく、一番居心地の良い状況に居続けることになったのだろう。

 

  そういえば、近年、面接をすると女子学生の方が元気であったり、コミュニケーション力が高く見えるというのも、面接では「ウェット」な方が有利になるからだと見れば至極当たり前の結果である。昔は不純な動機ではあるけれども、それなりの「ウェットなコミュニケーションの練習」をせざるを得なかった層は消滅していっただろうし、「朴訥としたスペシャリスト的な人」は「元気が無い」判定をうけることになるのだ。

 とはいえ、実際の仕事の場となれば話は別。数年たつと優秀だった女子学生よりぱっとしなかった男子学生の方がぐんぐんと伸びていくなんていうのも良く聞く話である。

 

 昔ならこうしたドライなコミュニケーションをとるタイプでも「ほんと、口下手でしょうがない」ということで周囲が放っておかなかったのだろうけど、今はそんな時代でもない。

 

 「異性に興味が無い」「恋愛に興味が無い」「結婚する気が無い」という男性の比率が上がっているということを、「逃げているだけだ」と言われたり、「しないんじゃなくて、できないんだろう」と揶揄されたりもするけれど、実は女性的な意味合いでの「恋愛行動」に興味がある男性というのは最初からそのくらいの比率しか居なかったのではないのかもしれないと思うのだ。それ以外の男性は”恋愛”ではなく、”性欲”に突き動かされていただけだったということではないのだろうか。

 

 もちろん、恋愛に興味が無いからといっても、家庭というものを全否定しているわけでもないということは当然だし、家族の存在で幸福感を感じないということでもない。それは昔から「お見合い」という制度が補っていた結果を見ればよくわかる。

 今日のように女性脳を持った男性ばかりが優位になっていくと、遺伝的に男性脳の持ち主が減るんじゃないかということはちょっと気がかりでもあるし、少子化対策だというなら、こうした男性脳な男性にもっと光を当てていかないといけないんじゃないだろうか。